あれから色々読み返したり、思い返したりして自分の中で整理した結果、
実際のところどういう意図で作品が作られたかは置いておいても

結局自分にとってこのシンフォニック=レインという作品は
登場人物達の「想い」――それを描き伝えるために在る物語なわけで。


例えそれがどんなに悲しい内容であったとしても、そのことによって、
自分の感じていた細かな疑問点や不満点が解消して
登場人物達の想いをより深く感じて、自分の思い入れが強まるのであれば、
自分の中の真実としては、受け入れるべきだろうと考えるように。


解釈はいくらでもありえるだろうし、唯一の真実なんてものを主張する必要はないだろうけど、
少なくとも、自分にとっての物語としての解釈としてはそれでいいだろうと。


ただ、フォーニエンドの解釈は受け入れるけど、
歌=「」とかは、作中描写が足りない気がするのと
何よりリセの存在を切り捨てることになるから認められないのだけど。


あと、自分の中での真実としては受け入れるとしても、これが実際にここまで考えて
作られていたかどうかは、まだ疑問の余地も。
偶然こういった解釈が可能な符号が転がっていただけって考えも捨てきれない。
そもそも、シンフォニック=レインの核となる着想と基礎設定を考えたディレクターの貝阿見氏と
実際にノベルスクリプト担当した西川氏が別っぽいのに、そんな細かな所まで徹底して作れるのかってのが。

それ以上に、もしこれが全て計算された上での作品であったとするのなら、
そんな奇跡のような完成度の作品が人の手で生み出せるのか、
それこそ――「妖精」の手によるものでもなければ存在し得ないと思うし、
それ程の完成度の作品が、これほどに不遇であることはどうしても受け入れられない。